矛盾を大事にしたいと改めて思う。
お前の写真は綺麗なんだ。綺麗はつまらねえよ。
どうも。150年目の移民です。
今日のテーマは「綺麗」です。
冒頭の言葉は今から2年ほど前、私がまだ専門学校生だった頃、私の撮った写真を講師の方々に見ていただいた時。照明の講師が私にそう言いまして。
まあ確かに綺麗な写真をチョイスしたんですよね。北海道をひとり旅して撮った美しい写真とかを。地元の新潟で撮った写真もありましたが。
うん。まあ綺麗ですね。で終わっちゃうみたいなんですよね。
ですが綺麗な写真は良いもんだと思っていた私は(うーんこれじゃまだダメなんか)とちょっと首をひねっていたわけです。ところが数日後に、どうして綺麗じゃつまらんのかがわかった気がしました。その一年前、つまり今から三年前に大駱駝艦天賦典式という舞踏集団の夏季合宿に参加したことがあり、プロの舞踏家にまじって稽古に励んだりとか、舞台講演に立ったりしました。
この時に主宰の麿赤兒の哲学を聞いたりもしました。麿さんはシェイクスピアのマクベスから魔女のセリフを引用して、『綺麗は汚い。汚いは綺麗。』と言っていました。
ただ美しいだけが美ではないのだ。醜さ、グロテスクさ、おどろおどろしさを併せ持つ『矛盾した美』が本物の美だ。
とまあそんなことを言っておられたよーな気がします。
それを綺麗な写真はつまらないと言われた後に思い出したわけです。
ああ自分は麿さんの言葉から何も学び取っていないじゃないか。綺麗な『だけ』の写真を撮って何が良いのだと少し反省したりしました。
それから色々考えました。
ロバート・キャパの写真はちょっとピントがボケてるのも多いし、アラーキーのはなんかひしゃげた写真がたくさんある。まあ銃弾飛び交う戦場ではフォーカスをしっかり合わせていられないだろうし、割れたレンズ使ったらひしゃげた写りになるのも当然でしょうが。けどきっと彼らは「綺麗に撮るなんて退屈なんだ」と分かっていてやってるはず。
とか。
生物の免疫って雑菌やらウイルスやらにその身を侵されるたびにそれと戦う力をつけている。あまりにも清潔すぎる場所で暮らすと免疫つかないらしい。体が体として成り立つには体を破壊するプログラムを使ってバージョンアップする必要があるんだなあ。汚い環境も時として必要なのだなあ。
とか。
やっぱミロのヴィーナスの美しさは両腕がないからだよなあ。完璧じゃないから究極的にエロいのかなあ。(これはちょっと違う話かも。)
とか。
そんなことを考え、去年は初めてオールドレンズを使ってみたりしました。綺麗なだけが私の表現すべき写真ではないはずだと考えてのことです。今は高画素・高解像度の時代。本物みたいに写ることが求められる今だからこそ、今のレンズほどカリカリシャープに写らない古いレンズに興味を持ったわけですね。
つい二週間前にFUJIFILMのX-T3を手にしてからも、いかに美しさと醜さのバランスを取ろうかとあれこれしてるところです。
綺麗は汚い。汚いは綺麗。 ああ〜良い言葉っすねえ。