150年目の移民

日本脱出したい映画好きな25歳のブログ

平面と立体の境という視点を知りたい。

150年目の移民です。

さっそくブログをサボりがちになってきた今日この頃、

何か語れるネタであらねば語れぬ…(O_O)

ってな省エネモードになってしまっていました。ダメですね。わたくし。

そんな訳で大好きな「写真」という表現について日々感じていることを書いてみようと思う訳です。撮りたい被写体についてとか。それなら語れるはずだから。こんな事を最近思うんです↓

 

 

 

私たちの周りのあらゆる写真は3次元を2次元的に圧縮している。

 

つまり、カメラが物理現実にある以上は被写体は立体であるはず。立体じゃあないもの(例えばパソコンの画面なんかに出る文字やら画像やらを)も撮れるんですが、それスクリーンショットで良いんじゃ?となってしまう気がするんです。

「いやパソコンの画面はフリッカーやら円偏光やらで面白い効果があるよ。」という向きもあるかもなんですが、それって画面そのものじゃあなくて画面から発せられる光が被写体なのではなかろか?ってな感じもありまして。

基本は3次元的な「立体」こそが写真の被写体なんだと思うんです。ですが写真になると平面だ。近くも遠くも凹凸も、全部平面になる。つまり2次元に圧縮される。変換されるんです。

 

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平らに閉じ込められているから遠くないし近くない。


 

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写真はごちゃついた3次元をシンプルな2次元の中に飲み込んでいる。



 

私たちが生きる3次元的世界の至る所に2次元が溢れている。

 

思えば写真以外でも二次元的なものは私たちの身の回りに溢れている気がします。

例えば日々お世話になっているスマホやパソコンの画面の中にはアプリケーションのウィンドウがあり、ブラウザ開いてネットを徘徊すればタブがたくさん出来たり。あるいはビルのガラスなんかも。落書きも。・・・・・・あれ??さっきの話と矛盾するような。うむむ。もっとよく推敲せねば。でもそんな矛盾も大事にしたいいいいい。。。

 

immigrantofthe150thyears.hatenablog.com

 

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ガラスという2次元は写真がこの世界に登場する以前から立体を平面に変えてきた。



 

 

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落書きもまた3次元の日常に潜む平面化された現実のコピーとしての2次元だ。

 

 

 

私の撮りたい写真は重なり合う2次元が作り出す3次元的仮想現実。

 

私が撮りたいと思える世界観や被写体は平面と立体の中間にあるような気がします。いや、それらを両方兼ね備えた写真が私の撮りたい写真だと感じます。ガラスが何枚か重なっている場所は面白いなあなんて。2次元が重なり合って3次元的な様相を見せる。奥行きが生まれる。平面なのに。まるでブラウザのタブのようです。平面の向こうに平面がある。そしてそこには夢がうつりこむ。タブにはメディアが。ガラスには虚像が。これらは現実のコピーであり、もう一つの現実だと思います。無限にも等しい膨大な情報が氾濫するこの時代では、幻は現実と同義でしょうからね。

立体という現実、平面という仮想、それらの境目に私の憶えていたい「視点」があると考えています。

 

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重なり合う2次元が作り出す3次元的仮想現実に私の憶えていたい「視点」がある。

 

ガラスの中の街と私を捉える『都市と私の虚像』シリーズは私のライフワークになると感じています。半世紀くらいかけてここからさらに深く視点を研ぎ澄ませていきたい。

私の愛機と一緒に。